インクルーシブ算数・数学教育の現状

このようなインクルーシブ算数・数学教育の研究の状況はどうなっているのでしょうか。海外の研究状況に目を向けてみると、インクルーシブに関連した数学教育研究の多さに驚かされます。2024年にシドニーで行われた世界最大の数学教育に関する学術会議である第15回数学教育国際会議では、2.1分科会「特別な学習支援を必要とする子どものための数学教育」において、多くの論文発表や議論がなされました。また多様性やインクルーシブ、数学学習の困難性に視点を当てた研究やハンドブック等の書籍の刊行も相次いでいます。(Bishop, A. et al.,2015;Fritz et al., 2019;Kollosche et al., 2019)。一方、国内の数学教育研究に目を向けてみます。2024年に開かれた日本最大の数学教育に関する学術会議である日本数学教育学会第57回秋期研究大会では、特別支援教育やインクルーシブに関わる数学教育研究はわずか1件(影山,2024)にすぎません。なぜこのような差が生じるのでしょうか。必ずしも海外の研究動向に国内の研究が追随する必要はありませんが、中央教育審議会による令和の日本型学校教育の提言(中央教育審議会、2021)や2022年のインクルーシブ教育の実現に関する国連の勧告等を契機とするインクルーシブ教育へ機運が高まっている国内の現状に対して、国内の数学教育研究と特別支援教育研究のつながりについて再考することは一定の意味をもつと考えられます。また、両者のつながりを考察することを通して、我が国におけるインクルーシブ教育の実現への方法論を見いだすことも可能となるかもしれません。

両者のつながりに関して、特別支援教育の領域における数学にわかりづらさをもつ子どもに関する研究と、数学教育の領域における数学にわかりづらさをもつ子どもに関する研究の違いを調査した研究があります。海外での調査研究がLambert & Tan(2017)、日本国内の調査研究が影山ら(2025)です。これらの研究結果を簡単に概観してみましょう。

Lambert & Tan(2017)では、2013年から2015年の149の数学教育論文を分析しました。その結果、障害のある子どもの研究では、数学の問題解決が理論に基づいて行動的に分析され、かつ、その86%が量的研究でした。量的研究とは、簡単に言えば子どもたちの表われを数値に置き換えて、その数値の統計的な有意差を用いて考察する研究手法です。一方、障害のない子どもの研究では、数学的な問題解決は構成主義や社会文化的アプローチを通して分析され、その35%が量的研究で、50%が質的研究でした。質的研究とは、子どもたちの表われを理論的前提から分析して考察を進める研究手法です。これらのLambert & Tan(2017)の結果を踏まえて影山ら(2025)は我が国における特別支援教育研究における数学を扱った研究と、数学教育研究におけるわかりづらさを扱った研究を調査、比較し、次のように結論付けました。数学教育研究では、個の子どもの振る舞いから一般の子どもの理解過程、概念形成等の考察を目指す傾向がある、つまり「一般の子ども」を志向する傾向があるのに対し、特別支援教育研究では、医療や数学教育の研究結果を使用しながら、特定の子どもの振る舞いを理解して目の前の子どものよりよい理解、支援を志向する傾向がある、つまり「目の前の子どものよりよい理解・支援を志向する」傾向があるとしました。研究によって何を志向するのか、何を目的とするのかの違いが、根本的に特別支援教育と数学教育での数学のわかりづらさに関する研究に違いを生み出しているのだと言えるでしょう。 このように、数学にわかりづらさをもつ子どもに関する研究は、数学教育研究と特別支援教育研究の両者の研究目的の違いによって、研究結果に大きな違いが見られるという現状があります。しかしその一方で、特別な支援を必要とする子どもたちの数は増え続け、多様化し続けているという現状があります(文部科学省初等中等教育局特別支援教育課、2022)。このような現状において、2種の研究を別々に行うのではなく、相互の研究の知見を参照しながら、目の前の一人一人の子どもがわかる数学の授業を行うことは喫緊の課題と言えるでしょう。インクルーシブ算数・数学教育の実現は、現在の喫緊の課題の一つであると言えるでしょう。

<参考文献>

・Bishop, A., Tan, H., & Barkatsas, T. N., (Eds.) (2015) Diversity in mathematics education; Towards inclusive practices. Springer.

・Fritz, A., Haase, V. G., & Räsänen, P. (2019) International handbook of mathematical learning difficulties; From the laboratory to the classroom. Springer, Cham.

・Kollosche, D., Marcone, R., & Knigge, M. et al. (2019) Inclusive mathematics education; State-of-art research from Brazil and Germany. Springer, Cham.

・影山和也(2024)インクルーシブな数学教育の哲学的探究. 日本数学教育学会秋期研究大会発表集録,57,pp.677-680.

・中央教育審議会(2021)「令和の日本型学校教育」の構築を目指して:全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現(答申). https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/079/sonota/1412985_00002.htm(2025年5月31日最終確認)

・Matsushima, M., & Kageyama, K. (2025). Ethical foundations for exploring inclusive science and mathematics education. In Kwon, O. N. et al. (Eds.), Proceedings of the 9th ICMI-East asia regional conference on mathematics education (pp.1223-1227).

・文部科学省初等中等教育局特別支援教育課(2022)通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒に関する調査結果について.https://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/2022/1421569_00005.htm(2025年5月31日最終確認)